僕の父が広島で被爆したことは毎年8月6日に書いてきた。今年はその日を全国ツアー真っ只中の広島で迎える。だから自分を叱咤激励するつもりで今日書くことにする。
海軍の技術将校だった父は派遣された広島の軍需工場の寮で被爆した。爆心1.4キロ。一緒に朝食をとっていた同僚3名は即死だったという。なぜ父だけ助かったのかというと、「おばちゃん、おかわり」と言って窓に背中を向けたからだそうだ。嘘のような話だが本当である。おかげで今の僕がいる。 しかし差別を恐れた父は、その後の人生を被爆の事実を隠して生きた。母と結婚したときも何も言わず、母は新婚旅行で父の背中に無数のガラスの傷痕を見つけてそれを知った。幼い頃の僕にはその傷痕がたまらなく恐ろしいものに見えて、触れてはならないものだと思っていた。
そしてその日は唐突にやってきた。大学受験を控えた高3の夏休み、父は広島で被爆したことを初めて僕に告げた。僕が丈夫に育ち、もう後遺症の心配はないと確信したからだろう。いまなら父の気持ちがわからなくもないが、そのときの僕は父を激しく責めた。なぜそんな大事なことをもっと早く言ってくれなかったのかと。もし僕がそのせいで不治の病に倒れていたら、どんな思いで死んでいっただろうと想像したからだ。だから僕の中には戦争にいった人たちに対して「もっと語ってくれ」という激しい思いがある。 だが、だらしないことに、その後、僕が父に被爆の話を詳しく訊くことはなかった。ドキュメンタリーなんぞを撮ることを生業にしながらもだ。身内だから聞けないこともある、などとうそぶいていたが、本当の理由はいまだに自分でも分からない。 だからというわけでもないが、「蟻の兵隊」の奥村和一さんは父の代わりをさせられたようなものだった。奥村さんを通して僕は父に「もっと語ってくれ」と言い続けていたのかもしれない。真実が知りたいと。奥村さんには何とも迷惑な話である。 そんな気持ちで撮った『蟻の兵隊』だが、晩年の父は認知症が進み映画を観ることはできなかった。父が観たらどんな感想を述べただろう。きっと複雑な思いをしたに違いない。それとも、よく撮ったな、と言ってくれただろうか。 そうそう、父が古希を迎えたとき、急に原爆の手記を書くと言い出したことがあった。僕はぜひ読みたいので書いてほしいと勧めたが、結局父は書かなかった。もっと強く勧めていれば、と今でも後悔している。 神戸に来て広島が近くなった。いつか父の被爆と正面から向き合うときが来るのだろうか。
池谷薫Facebook
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