top of page
執筆者の写真池谷薫

今日は「蟻の兵隊」の音楽について解説する。音楽監督を務めたのは内池秀和さん。僕らはエディと呼んでいるが、NHK「ダーウィンが来た!」でMISIAが歌うエンディングテーマ「AMASING LIFE」を作曲した音楽家といえば皆さんお分かりだろう。

じつは、「蟻の兵隊」のエンディングにはピンク・フロイドの「TIME」を使いたいと思っていた。あの「ドクッ、ドクッ」という心臓の鼓動音が奥村さんの覚悟の旅のイメージに重なったからだ。ところがエージェントから一曲1万ドルと言われ、アホらしいので早々にやめることにした。それで誰かいい人はいないかと探していたところ、懇意にしている音響効果の鈴木利之さんから紹介されたのがエディだった。

そんなわけで「蟻の兵隊」の音楽のコンセプトは最初から「鼓動」と決まっていた。

映画にとって音楽は極めて重要である。音楽にはイメージを強く喚起する力があるから、下手な曲を付けられるとこちらが思っているのと全く違う映画になってしまうのだ。だから作曲家との打ち合わせは緊張する。でもエディとは最初から馬が合った。エディが中国や香港に強く関心を持っていたせいもあるだろう。彼は奥村さんの鼓動を西アフリカの民族楽器で壺のような形をしたウドゥ(写真右上)を使って見事に表現してくれた。そしてその鼓動のイメージを際立たせるために、弦楽器とパーカッションのみの構成を考え、人の温もりを感じさせる音楽を作っていった。

作曲家との打ち合わせで大切なのは、音楽シーンの背景を監督が作曲家に的確に説明すること。「蟻の兵隊」で僕がエディに最も熱を込めて語ったのは、宮崎元参謀の叫びに背中を押されて奥村さんが中国へ旅立つシーンである。あの場面では病院を出て感慨にふける奥村さんが遠くの江の島を見つめるが、次の瞬間、一気に天安門へとジャンプする。大胆な省略を行っているのだ。映画は説明すると途端につまらなくなる。シーンをどうダイナミックに展開させるかが編集の腕の見せ所なのだ。だがそのためには音楽の力が必要になる場合がある。あのシーンがまさにそうだ。

エディには奥村さんがこの旅にかける覚悟を、あるカットに思いを込めて話した。夜行列車の車中で奥村さんがコルセットを装着する場面だ。旅に出る前、奥村さんは元日本兵の自分が中国へ行けば、きっと殴られるだろうと思っていた。だがそのときにみっともない姿をさらしたくはない。背筋をピンと伸ばして甘んじてその責めを受けよう。あのコルセットにはそんな奥村さんの壮絶な覚悟が込められているのだ。

僕からその話を聞いたエディは、しばし無言でうっすらと涙を浮かべているようだった。そしてそのシーンを哀愁に満ちた女性のヴォーカルを使うことによって見事に表現してくれた。ふつうドキュメンタリーの音楽にヴォーカルを使うことはあまりない。情感がこもり過ぎてしまうからだ。なのにあえてヴォーカルを入れたのは、エディの奥村さんに対する最大限のリスペクトなのだと僕は思う。かくして多くの人の涙を誘う音楽シーンが誕生した。

そのエディは残念ながら一昨年の8月に天へと旅立ってしまった。52歳という若さだった。「AMASING LIFE」は彼の遺作となった。

エディは、わざわざ香港映画祭にまで観にいくほど「蟻の兵隊」が好きだった。収録中などはハイになってしゃべり出したら止まらないという男だったから、いまごろはあちらの世界で奥村さんと共通の関心事である中国や香港の情勢をにぎやかに語り合っているのではないか。

天才エディならこのコロナ禍の世界をどんな音楽で表現しただろう。 池谷薫Facebook

執筆者の写真池谷薫

映画公開の翌年(2007年)に出版した「蟻の兵隊 日本兵2600人山西省残留の真相」(写真は新潮文庫版)

この本は映画とはまったく切り離して書いた。僕の手元には出会った翌週に奥村さんから送りつけられた段ボール箱3つ分の資料があった。残留部隊の編成を命じる北支派遣軍第1軍の発信受信電報、残留将兵や宮崎参謀の手記、澄田軍司令官の自伝、中国に保管されていた公文書… それらを編むようにして半年かけて書いた。

残念ながら絶版となっているが、大きな図書館には大体置いてある。あと、いまアマゾンを調べたら中古本がたくさんあった。(ちょっと高くなってるけど…)

残留の真相を知りたい方はぜひ手にとってお読みいただきたい。 池谷薫Facebook

劉面煥さんのことを書く。日本軍から性暴力の被害を受けた、あの老婆のことを。

劉面煥さんと奥村和一さん。一見何の接点もない2人だが、じつは劉さんも戦後補償をめぐって日本政府と係争中だった。そして奥村さんはその裁判を欠かさず傍聴していた。

さらに奥村さんは劉さんのような性暴力の被害者に対し一度ならず支援を行っていた。このようなお婆さんたちは若いときの無理がたたって体を壊されている方が多い。質素な年金暮らしの奥村さんだが、山西省を旅する際には、必ずここに10万、あそこに10万、と少なくない額のお金を寄付していた。

こうして実現した2人の対面だが、じつは劉さんは体調を崩されていて撮影の3日前まで入院していた。あるいは元日本兵と会うことのプレッシャーが体に異変を生じさせたのかもしれない。僕は撮影を諦めかけていた。だが劉さんは、「行きます。それが私の使命です」とおっしゃってくれた。

淡々とした表情ですさまじい被害を語る劉面煥さん。最後その劉さんが「赦し」を与えるかのように奥村さんに語りかける。けっして日本軍の蛮行を赦したわけではない。だが目の前にいる元日本兵も覚悟をもって戦争を語り継ぐことを使命としている。劉さんにはそれがわかったのではないだろうか。 池谷薫Facebook

bottom of page