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終戦の日。戦後も戦争をつづけさせられた奥村和一さんら山西残留兵士の無念を思う。

1945年8月、ポツダム宣言を受諾した日本は連合国に対して無条件降伏した。これにより海外に派遣された帝国陸海軍の将兵たちは、すみやかに武装を解除され、家族の待つ祖国へ帰国することになった。しかし、中国山西省に駐屯していた北支派遣軍第一軍の将兵2600人には、その喜びは無縁だった。中国国民党系軍閥の部隊に編入された彼らは、戦後なおも3年8カ月にわたって中国共産党軍と戦い、550人余りが戦死した。生き残った者も700人以上が捕虜となり、長い抑留生活を強いられた。ようやく帰国することができたのは昭和30年前後になってからのことだった。 ところが、帰国した彼らを待ち受けていたのは逃亡兵の扱いだった。日本政府は、残留将兵たちが「自らの意思で残留し勝手に戦争をつづけた」とみなし、彼らが求める戦後補償を拒否しつづけたのである。

「蟻の兵隊」の奥村和一さんは75年前のこの日をどう迎えたのか。 早朝、奥村さんは八路軍に対する掃討作戦のため寧武の大隊本部を出発した。途中、分遣隊が駐屯する峠の村に着いたとき、突然全員集合の指示が下った。玉音放送を聴くためである。だが、ガーガーピーピーいうだけで何を言っているのかさっぱりわからない。すると、うしろの方で聴いていた軍曹が「日本が勝った、日本が勝った」とわめきはじめた。つられるように「万歳!」と歓声が湧きあがる。時ならぬ勝利の雄叫びを聞きながら、奥村さんは不思議な気持ちに陥っていた。はたして、日本は本当に勝ったのだろうか。 2日後、大隊本部に戻った奥村さんは、初めて日本が負けたことを知らされる。しかし日本が負けたのはアメリカにであって、中国に負けたのではないと思っていた。上官たちも「負けた」とは言わず、「一時、休戦したまでだ」と言っていた。2600人もの将兵が武装解除もせずに残留した悲劇の下敷きには、兵隊たちのこんな気分があった。 では、残留を命じられた兵士の心境とはどんなものだったのか。拙書「蟻の兵隊 日本兵2600人山西省残留の真相」(新潮社)から、奥村さんが自身の残留に至る経緯を語ったくだりを記す。

「ある日突然、中隊の松岡人事係曹長に呼ばれました。曹長は、特務団(残留部隊)の編成命令が下った、中隊の三分の一を残さなければならない、と言ったあと、とても困ったような表情になりました。中隊の全員が帰国するためには、誰かが鉄道警備のために後衛尖兵として残らなければならない。しかし、長男は家を継がなければならないから帰してやりたい。古年次兵も、もう立派にお役目を果たしたのだから帰国させてやりたい。それから、日本はいま食糧事情が悪いから、農業を営む者は帰さなければならない、といつもとは違う弱々しい声で語りかけました。  そして、ちょっと黙ったあと、俺も残るから、お前も残ってくれ、と私に残留を命じたのです」  奥村の実家は新潟で雑貨商を営んであり、その長男だった奥村は、当然のことながら一日も早い帰国を待ち望んでいた。  しかし、目の前にいる松岡の顔には苦悩の色がありありと浮かんでいた。曹長といえば、兵隊にとってはまともに顔を見ることもできない「神様」のような存在である。その曹長が人選に悩むのをみて、こんなに人間味がある人なのかと思い、ほろりときたという。 「松岡曹長は昭和13年の入隊でもう7年も中国で戦っていました。しかも、たった一人の弟が戦死したのを知らされたばかりでした。農業を営む両親は、彼の帰りを一日千秋の思いで待っていました。その曹長が残るというのです。実情をせつせつと訴えかけられ、そのうえで残ってくれるかと言われれば、はいと言うしかありません。いやですとは、とても言えませんでした」

2600人の残留将兵には、その数と同じ残留をめぐるドラマがあった。世界の戦争史上類を見ない「売軍行為」と称される日本軍山西省残留問題――。かくして戦後の戦死者550人、生き残った者も700人以上が捕虜になるという、あってはならない悲劇が起きた。

写真:岡本 央 千鳥ヶ淵戦没者墓苑にて 池谷薫Facebook

執筆者の写真池谷薫

いよいよ明日(8/1)から「蟻の兵隊」の全国ツアーがはじまる。トップバッターの長野ロキシーでの上映が信濃毎日新聞に紹介されるなど(写真左)、メディアへの露出も増えてきた。

全国各地のミニシアターは映画の復活をかけて本当にがんばっている。劇場が独自に番組を編成する特性を活かし、終戦75年のこの夏は多くのミニシアターが映画で戦争を問う特集を組んだ。長野ロキシーと新潟シネ・ウインドは「蟻の兵隊」と「野火」を併映し、神戸元町映画館は、8月の第1週が「東京裁判」、2週目が「蟻の兵隊」、3週目が「ゆきゆきて、神軍」と、ゾクゾクするようなラインナップだ。(写真右上)。そうそう、元町映画館はコロナでバイトの機会が減った大学生のために、学生の入場料を年内は500円にする。

感染防止にも万全の注意が払われている。入場者数を制限したり、マスクの着用やアルコール消毒を徹底したり、東京のポレポレ東中野はロビーでの混雑を避けるため公開3日前からのWeb予約制を取り入れた。

僕もこのツアーに備えて徹底した体調管理を行ってきた。外での飲食はこの3カ月してないし、そもそも大学の授業がオンラインになったため朝夕のウォーキング以外はほとんど外出していない。

8月からは週末ごとに旅に出るが、それも最長で2泊にとどめ(9月の沖縄は除く)、トークの際にもマスクをつけるなど念には念を入れて感染防止に努める。

僕は映画から多くを学び、映画に育てられた。この夏「蟻の兵隊」が少しでもミニシアターの力になれるなら、こんなにうれしいことはない。


池谷薫Facebook

執筆者の写真池谷薫

更新日:2020年9月20日

奥村さんは東日本大震災が起きた年の5月25日に亡くなった。享年86 晩年は癌との闘いだった。

奥村さんが危ないと知ったのは「先祖になる」のロケで陸前高田の佐藤直志さんを撮影中だった。ロケを終えて中野の病院に駆けつけると、すでに奥村さんは全身を管で覆われ、酸素マスクをつけていた。息をするのもつらそうだったが、彼は僕を見つけるとこう言った。「陸前高田はどうですか?」…

最期までそんな人だった。とても人の心配ができる状態ではないのに、東北の被災地のことが心配でしかたなかったのだろう。直志さんに会わせたかった。2人が会っていたらどんな会話をしただろうか。

ドキュメンタリーは、映画は終わってもその人の人生は終わらない。だから奥村さんとは彼が死ぬまでお付き合いをさせていただいた。大した力にはなれなかったが、病院の手配のお世話をしたり、戦友の墓参りで遠征するときはカバン持ちを買って出た。あれほど深く彼の人生に踏み込んだのだから当然のことだと思っている。せめてもの罪滅ぼしという気持ちもあった。

最後の上映会は亡くなる3カ月前だった。このときは病院を抜け出して会場に来てもらった。放射線治療の合間なので今日のトークはボロボロだろうと諦めていたら、じつに見事な受け答えでキレッキレのトークだった。いつものように僕と「漫才」をやらかし、会場を笑いと涙で包んだ。

終了後は懇親会が予定されていたが、さすがにこの日はすぐに病院に帰さなければならない。「今日はお酒はなしだよ」とつれなく言うと、子犬のような悲しそうな眼をした。「じゃあ一杯だけね」と言ったら、今度は弾けるような笑顔をみせた。その顔が忘れられない。


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