僕が狂って撮った「蟻の兵隊」… ではなぜ奥村さんはその僕を許したのか? 奥村さんが降りると言えば、その時点で映画は終わっていたはずだ。
答えを言おう。それはこの映画の完成を誰よりも強く待ち望んでいたのが奥村和一その人だったからなのだ。その思いは映画を監督する僕よりもはるかに強かったのではないか。
僕が奥村さんに出会ったとき、すでに裁判は一審を敗訴で終えていた。このままでは誰にも知られずに山西残留問題が歴史の闇に葬り去られてしまう。奥村さんには、せめて映画に残したいという切迫した情念にも似た感情があった。藁にもすがる思いだったのである。
そもそもドキュメンタリーは撮らせてもらっているうちは撮れない。撮る側と撮られる側が一緒につくるという感覚にならなければ、緊張感のある画など撮れないのだ。僕はそれを「共犯関係」と呼ぶ。あるいは僕と奥村さんとのあいだには、出会ったときからこの「共犯関係」が成立していたのかもしれない。
奥村さんの壮絶な覚悟を物語るエピソードがある。殺人訓練の現場を再訪したあと、一瞬にして日本兵に戻るという失態を演じた奥村さんに異変を気づかせるシーンを撮影中のことだ。
「てめえはどこまで奥村さんを追い詰めれば気が済むんだ!」
突然罵声が飛び、通訳の大谷龍司が僕に殴りかかってきた。大谷は僕が奥村さんを追い詰めていくのに耐えられなくなってしまったのだ。
あとは修羅場である。僕は大谷に首を絞められながら、どこか現実味のない遠くの出来事のように感じていた。
そのときだった。奥村さんがすっくと立ち上がり強い口調で言った。
「やめてください! これは私の執念を撮る映画なんです。その執念が足りないからこんなことになるんです」
その場にいた全員が泣いた。泣くしかなかった。そして奥村さんひとりに重圧を押し付けている自分たちを恥じた。「俺たちは何をやっているんだろう」と。
人間奥村和一のすごさはいくら語っても語り尽くせないが、あえてひとつだけあげるとすれば、80歳になってもまだ自分を変えられると思っていたところではないか。
この事件をきっかけに、奥村さんは山西残留問題だけでなく、戦争がもたらすあらゆる悲惨な実態を暴こうと、さらなる執念を燃やしていく。自分はまだ戦争を知らないと言いながら…。
池谷薫Facebook https://www.facebook.com/kaoru.ikeya.1