top of page
執筆者の写真池谷薫

僕が狂って撮った「蟻の兵隊」… ではなぜ奥村さんはその僕を許したのか? 奥村さんが降りると言えば、その時点で映画は終わっていたはずだ。

答えを言おう。それはこの映画の完成を誰よりも強く待ち望んでいたのが奥村和一その人だったからなのだ。その思いは映画を監督する僕よりもはるかに強かったのではないか。

僕が奥村さんに出会ったとき、すでに裁判は一審を敗訴で終えていた。このままでは誰にも知られずに山西残留問題が歴史の闇に葬り去られてしまう。奥村さんには、せめて映画に残したいという切迫した情念にも似た感情があった。藁にもすがる思いだったのである。

そもそもドキュメンタリーは撮らせてもらっているうちは撮れない。撮る側と撮られる側が一緒につくるという感覚にならなければ、緊張感のある画など撮れないのだ。僕はそれを「共犯関係」と呼ぶ。あるいは僕と奥村さんとのあいだには、出会ったときからこの「共犯関係」が成立していたのかもしれない。

奥村さんの壮絶な覚悟を物語るエピソードがある。殺人訓練の現場を再訪したあと、一瞬にして日本兵に戻るという失態を演じた奥村さんに異変を気づかせるシーンを撮影中のことだ。

「てめえはどこまで奥村さんを追い詰めれば気が済むんだ!」

突然罵声が飛び、通訳の大谷龍司が僕に殴りかかってきた。大谷は僕が奥村さんを追い詰めていくのに耐えられなくなってしまったのだ。

あとは修羅場である。僕は大谷に首を絞められながら、どこか現実味のない遠くの出来事のように感じていた。

そのときだった。奥村さんがすっくと立ち上がり強い口調で言った。

「やめてください! これは私の執念を撮る映画なんです。その執念が足りないからこんなことになるんです」

その場にいた全員が泣いた。泣くしかなかった。そして奥村さんひとりに重圧を押し付けている自分たちを恥じた。「俺たちは何をやっているんだろう」と。

人間奥村和一のすごさはいくら語っても語り尽くせないが、あえてひとつだけあげるとすれば、80歳になってもまだ自分を変えられると思っていたところではないか。

この事件をきっかけに、奥村さんは山西残留問題だけでなく、戦争がもたらすあらゆる悲惨な実態を暴こうと、さらなる執念を燃やしていく。自分はまだ戦争を知らないと言いながら…。


執筆者の写真池谷薫

更新日:2020年7月26日


「蟻の兵隊」を狂って撮った、と2日前の投稿で書いた。その理由は他にもある。

「蟻の兵隊」のなかで強烈な印象を残す場面のひとつに、奥村さんがかつての処刑場を再訪するシーンがある。終戦間際の昭和20年5月、奥村さんは「初年兵教育」の名のもとに罪のない中国人を銃剣で刺殺すよう命じられていた。最前線では躊躇なく敵兵を殺さなければならない。軍はこの訓練を「刺突(しとつ)」と呼び、下級兵士に命じる上官たちは「肝試し」と呼んだ。狂気の沙汰である。中国戦線に送られた新兵のほとんどがこの殺人訓練を受けさせられていた。

その現場を再訪するというのである。奥村さんの思いがどんなだったか想像を絶するが、まるで下手人と一緒に犯行現場を訪ねるような、痛みをともなう道行だった。われわれ撮影スタッフの心は荒び、その日が近づくにつれケンカが絶えなくなっていった。

殺人訓練が行われた町・寧武(ねいぶ)は、偶然にも児童節(中国の子どもの日)の賑わいの中にあった。小さな子どもたちがきれいに着飾り、女の子はお化粧までしている。子どもが大好きな奥村さんが近寄り、「かわいいねえ」と頭をなでる。それが3人、4人とつづき、5人目のときだった。突然中国人の通訳が「ここはそんなことをする町ではありません!」と怒鳴り声をあげた。

奥村さんからすれば少しでも自分の気持ちを楽にしたかったのだろう。しかし彼にとっては、あまたの同胞が殺された町での奥村さんのこの行為が気持ちの悪いものに思えたのだった。

びくっと体を震わせ奥村さんが我に返る。一瞬にしてその場が凍り付いた。そして、こうした極限の精神状態のなかで、奥村さんは静かに狂っていった。(つづく)

写真は、殺人訓練の現場で自分が命じられた行為を語る奥村和一さん。撮る側と撮られる側の距離感がゼロに等しい過酷な撮影がつづいた。


執筆者の写真池谷薫

更新日:2020年7月27日

「蟻の兵隊」は僕が狂って撮った映画である。そういうと驚くかもしれないが本当にそうなのだ。

狂った理由はいくつもあるが、そのひとつは主演の奥村和一さんにも静かな狂気があったということ。奥村さんは定年を迎えてから残留問題の究明一筋に生きた人である。つましい年金暮らしのなか防衛庁の図書館に足繁く通い、中国山西省にも足を運んだ。コピーを取るにも金はいるが、その金は奥さんの財布から失敬したという。だがその奥さんには自分が何をしているのか一切言わない。僕は、そこに普通の人の心の奥底にひそむ狂気を見ていた。事実、残留問題を憤るときの奥村さんの熱量はすさまじいとまで呼べるものだった。事会った次の週には段ボール3箱分の資料を僕に送りつけてきた。そんな彼と向き合うには僕も狂うしかなかったのだ。

ふたつめ… 「蟻の兵隊」は記憶の映画である。記憶と格闘する男の映画と言ってもいい、だがその記憶は撮影当時60年も前の曖昧なものなのだ。奥村さんは気づかぬうちに自分の記憶を都合のいいように修正してしまっていた。記憶を勝手に編集していたのである。僕はそれを知って激しく焦った。そのままでは「裸」の奥村和一が撮れなくなってしまうからだ。では僕がどうしたかというと、奥村さんが語る事実の一つひとつに「それは違うでしょう」と異議を挟むようになっていった。本人を前にして言うのである。この若造は何を言うのかと奥村さんはひどく戸惑った様子だった。

こうして彼を追い込むことが、けして快感だったわけではない。相手は80歳の老人で、戦争と真っすぐに向き合う苦しみの中にある人なのだ。「俺は何をやっているのか」と何度も自己嫌悪に陥った。

では、なぜ奥村さんはそれを許したのか… そのつづきは明日書くことにしよう。

写真は2005年5月、山西省でのロケ中、捕虜となり強制労働させられた炭鉱の跡で


bottom of page