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執筆者の写真池谷薫

更新日:2020年7月27日

7月22日は14年前に「蟻の兵隊」が初公開された日である。封切りの日はいつも緊張するが、その日、東京渋谷のシアター・イメージフォーラムの前には早朝から長蛇の列ができ、5回の上映すべてが立ち見となる満席だった。翌週には劇場のもう一つのスクリーンも開けることになり、1日8回上映という、いまでは考えられない奇跡のスタートとなった。その後も大入りがつづき、結果「蟻の兵隊」は11週のロングランを達成し、イメージフォーラムでの観客動員は2万人を超えた。

大ヒットの要因はいくつもあった。その夏、世間は小泉純一郎元首相の靖国公式参拝で騒然とし、あの戦争が何だったのか、国中で激しい議論が戦わされていた。そのせいもあって「蟻の兵隊」はメディアに大いに注目され、連日のように新聞・テレビで取り上げられた。終戦記念日に高校野球の合間のNHKニュースで紹介されたり、ちょっとした社会現象になっていたと言っていいだろう。

もう一つの要因は勝手連的な応援団「蟻の兵隊を観る会」の存在だ。ネットを通じてつながった老若男女が4月の試写会で結束し、組織的な宣伝活動を行うことになったのである。実際に奥村さんに会ってその人柄に魅了されたのも応援の輪に加わる大きな理由だったのではないか。メンバーは週末ごとに市民集会に出かけてチラシを手配りしてくれたが、4か月間に配ったチラシの数は20万枚を超えた。

いまも思い出すと心が震えるのだが、観る会の活動はある共通の思いに支えられていた。奥村さんら元残留兵を終戦記念日の8月15日に再び劇場の舞台に立たせる——。戦後も戦争をつづけさせられた兵士たちの映画である。それを8月15日の前に終わらせるわけにいかない。

観る会の皆さんにはいくら感謝してもしきれない。「蟻の兵隊」がこうした善良な市民に支えられた映画であることを誇りに思う。

上の写真は2006年7月7月、早稲田大学で開催された「蟻の兵隊を観る会」学生部が主催した上映イベントで。学生たちが着ているTシャツは公開に合わせてつくったもので「蟻シャツ」と呼んでいた。


更新日:2020年7月27日


僕の父が広島で被爆したことは毎年8月6日に書いてきた。今年はその日を全国ツアー真っ只中の広島で迎える。だから自分を叱咤激励するつもりで今日書くことにする。

海軍の技術将校だった父は派遣された広島の軍需工場の寮で被爆した。爆心1.4キロ。一緒に朝食をとっていた同僚3名は即死だったという。なぜ父だけ助かったのかというと、「おばちゃん、おかわり」と言って窓に背中を向けたからだそうだ。嘘のような話だが本当である。おかげで今の僕がいる。 しかし差別を恐れた父は、その後の人生を被爆の事実を隠して生きた。母と結婚したときも何も言わず、母は新婚旅行で父の背中に無数のガラスの傷痕を見つけてそれを知った。幼い頃の僕にはその傷痕がたまらなく恐ろしいものに見えて、触れてはならないものだと思っていた。

そしてその日は唐突にやってきた。大学受験を控えた高3の夏休み、父は広島で被爆したことを初めて僕に告げた。僕が丈夫に育ち、もう後遺症の心配はないと確信したからだろう。いまなら父の気持ちがわからなくもないが、そのときの僕は父を激しく責めた。なぜそんな大事なことをもっと早く言ってくれなかったのかと。もし僕がそのせいで不治の病に倒れていたら、どんな思いで死んでいっただろうと想像したからだ。だから僕の中には戦争にいった人たちに対して「もっと語ってくれ」という激しい思いがある。 だが、だらしないことに、その後、僕が父に被爆の話を詳しく訊くことはなかった。ドキュメンタリーなんぞを撮ることを生業にしながらもだ。身内だから聞けないこともある、などとうそぶいていたが、本当の理由はいまだに自分でも分からない。 だからというわけでもないが、「蟻の兵隊」の奥村和一さんは父の代わりをさせられたようなものだった。奥村さんを通して僕は父に「もっと語ってくれ」と言い続けていたのかもしれない。真実が知りたいと。奥村さんには何とも迷惑な話である。 そんな気持ちで撮った『蟻の兵隊』だが、晩年の父は認知症が進み映画を観ることはできなかった。父が観たらどんな感想を述べただろう。きっと複雑な思いをしたに違いない。それとも、よく撮ったな、と言ってくれただろうか。 そうそう、父が古希を迎えたとき、急に原爆の手記を書くと言い出したことがあった。僕はぜひ読みたいので書いてほしいと勧めたが、結局父は書かなかった。もっと強く勧めていれば、と今でも後悔している。 神戸に来て広島が近くなった。いつか父の被爆と正面から向き合うときが来るのだろうか。



池谷薫Facebook

更新日:2020年7月27日

全国ツアーの大事な上映場所の一つに「蟻の兵隊」の主人公・奥村和一さんの故郷・新潟がある。(8/22,24,26,28 シネ・ウインド 初日トーク)

奥村さんにとって故郷は複雑な思いのにじむ場所だ。実家は代々つづく雑貨商で、その長男だった奥村さんは戦争がなければ当然のように店を継ぐはずだった。だが戦争が彼の人生を一変させる。20歳で兵隊にとられ、あろうことか戦後も戦争をつづけさせられた。昭和23年の戦闘で重傷を負い、捕虜となって6年もの抑留生活を強いられた。ようやく日本に引き揚げることだができたのは、日本が高度経済成長期に突入しようとする昭和29年のことだった。20歳から30歳までの青春の10年を戦争と捕虜で過ごしたのである。

しかし帰国した彼を待ち受けていたのは祖国日本の手ひどい仕打ちだった。自分の軍籍を確認するため真っ先に新潟県庁に向かった奥村さんは、そこで自分の軍籍が知らないあいだに抹消されていたのを知らされる、さらに故郷の中条では「中共帰り」「アカのスパイ」のレッテルを貼られ、公安警察官の厳しい監視の目にさらされた。商いをしている家に毎日警察がやってくるのである。このままでは店を潰されると思った奥村さんは、追われるように故郷をあとにした。ちなみにその店は、生死不明となった奥村さんの代わりに妹のキミさんが婿をもらって必死に守っていた。主の父親は奥村さんの安否を気遣いながら3年前に亡くなっていたのである。

60年後… 映画「蟻の兵隊」が完成し、中条で自主上映会が開催されることになった。一度は捨てた故郷である。町の人々の反応が怖い、と奥村さんは正直な胸のうちを明かした。

だが奇跡が起きた。故郷は彼を暖かく迎えてくれたのである。町のいたるところにポスターが張られ、会場は800人もの観客で埋め尽くされた。舞台挨拶に立った奥村さんを万雷の拍手が包む。彼は、いつものような毅然とした態度で応じたが、目元が潤むのを隠すことはできなかった。

そのこともあってか、晩年の奥村さんは故郷のことをよく口にした。そして本来ならば入ることを許されない先祖代々の墓に眠ることを望んだ。

新潟での上映後は足を延ばして中条の墓を3年ぶりに訪れようと思う。そして、奥村さんとともに闘った「蟻の兵隊」の日々を振り返るつもりだ。

奥村さん、僕はあなたと出会えて幸せでした。残念ながらいまこの国はいつか来た道を再びたどろうとしています。そんなときに、あなたのような実際に弾の下をくぐった元兵士がいなくなりつつある現実を憂いています。でも諦めるわけにはいきませんね。そう。あなたは決して諦めない人でした。あなたの遺志を受け継ぐためにも、これからも戦争とは何か、戦争の手触りとは何か語り継いでいきます。どうぞ向こうから見守っていてください。大好きなお酒を飲みながら。


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