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  • 執筆者の写真池谷薫

宮崎舜市さんのことを書く。終戦時の役職は支那派遣総軍作戦主任参謀。宮崎さんは、日本軍山西省残留問題の真相を知る唯一の生き証人だった。

だが、僕がその存在を知ったとき、宮崎さんは脳梗塞で倒れられていて、家族以外は面会謝絶の状態だった。それでも僕は撮りたかった。ご長女に「お顔が証言です」と撮影の許しを求めた。家族にとっては見せたくない姿である。返事はなかなかもらえなかった。

ひと月半後、ご長女から連絡があった。「なぜ父が生かされているのか、ずっとそればかり考えていました。きっとあの残留問題が悔しくてしかたないのでしょう。死ぬに死ねないのでしょう。お役に立つのであれば、撮ってください」

「でも期待しないでくださいね。何も反応しませんから」

こうして宮崎さんと奥村さんの面会は実現した。病室の宮崎さんは意識がまるでないようだった。だが、奥村さんが耳元で「参謀」と声をかけると、宮崎さんは言葉にならない叫びをあげ、奥村さんの言葉に強く反応した。鳥肌が立った。どう見てもわかっていらっしゃるようだった。

目の前の光景に圧倒されながら思った。これぞまさに人間の尊厳ではないか。たとえあのような状態になっても、宮崎さんの心の中では怒りや悲しみの感情が情念の炎となって燃えたぎっている。宮崎さんの叫びが奥村さんの背中を強く押した。

公開の翌年、宮崎さんは99歳で亡くなった。最後の夏はとても穏やかな様子だったという。「蟻の兵隊」を観た看護師たちが代わる代わる耳元で囁いたからだ。「宮崎さん、感動しましたよ。映画、たくさんの人が観てますよ」と。

復員後、宮崎さんは公職追放にあって仕事が見つからず、仕方なく自衛隊の前身である警察予備隊に入隊した。二度とご免と思っていた軍隊だけに、そのときは自殺まで考えたという。

その後、第1師団長、北部方面総監を務めて退官したが、自衛隊のイラク派遣には猛烈に反対していたそうだ。戦争の何たるかを知らせずに若者を戦地に送るわけにはいかないと言って。

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  • 執筆者の写真池谷薫

奥村さんと酒を飲むのが好きだった。新潟生まれの奥村さんは、まさに酒豪と呼べる人だった。でも、どれほど飲んでも乱れない、じつにきれいな酒だった。若い頃は業界紙の記者などもしていたが、原稿を書くのに一升瓶を傍らに置いたというから酒好きの人ならその強さがわかるだろう。

晩年はがんで入退院を繰り返したが、入院中、栄養剤にウイスキーを混ぜたり、病院の前の居酒屋に行かないかと誘いの電話がかかってきたりした。僕と出会った頃は焼酎の牛乳割りを好んで飲んでいたが、体のためには牛乳だけにした方がいいと意地悪を言うと、それだと下痢をする、とすました顔で答えた。

亡くなる前年には酒で逸話を残した。ある日、話があると言われて自宅を訪ねると、いきなりメモのようなものを渡された。見ると、5泊6日で全国各地を一筆書きのように旅する日程が細かく書かれている。この先そんなに長くは生きられないと思ったのだろう。戦友の墓参りや遺族への挨拶など、思い残すことがないようにしたかったようだ。

だが、このときは放射線治療を終えたばかりで、とてもそんな長旅に耐えられるとは思えなかった。僕はその場で付き添うことを決め、ただし今回は1泊2日にするよう言い聞かせた。誤解のないように言っておくが、こんなとき奥村さんは決して自分から付き合ってほしいなどとは言わない。ただ「蟻の兵隊」の撮影中から万一に備えて僕には何でも報告するという約束を交わしていた。

旅の目的は岩手県二戸市の戦友の遺族を訪ね、帰路、仙台に立ち寄り「蟻の兵隊」に出演していただいた金子傳さんの墓参りをすることだった。東北新幹線に乗るやいなや奥村さんはワンカップの日本酒を飲み始め、二戸に着くまでにまず三合飲んだ。それから隣が日本酒の蔵元という遺族のお宅でその酒を二合。さらに仙台に着いて晩酌に二合。さすがにもうこれでおしまいと言い渡してホテルの部屋に送り届けたが、翌朝問い詰めると、こっそり部屋を抜け出し近くのコンビニで三合買って飲んだという。つまり、この日一日で一升飲んだわけだ。奥村さんはこのとき85歳。いやはや何とも立派な肝臓をお持ちで、と僕は呆れるしかなかった。

翌日、金子さんの墓参を済ませた奥村さんは、駅まで見送りに来てくれたお嫁さんと孫娘に決然とした表情で言った。「私はこのまま旅をつづけます」…僕が慌てたのは言うまでもない。

奥村さんは、とりわけ故郷新潟の酒を愛した。22日からその新潟で上映する。きっと彼の気配を濃厚に感じる上映になるだろう。

写真:岡本 央 池谷薫Facebook

  • 執筆者の写真池谷薫

「捕虜になる前に死ねというのが日本の軍隊の教えだったのです」

「蟻の兵隊」のなかで奥村和一さんが互いに銃を向けあった解放軍兵士に語った言葉である。昭和16年に当時の陸相東条英機が示達した戦陣訓は、「生きて虜囚の辱めを受けず」という一節であまたの兵士の命を奪い、沖縄戦では民間人の集団自決の要因となった。

 戦後3年たっての戦闘で重迫撃砲の直撃を受けた奥村さんは、左半身に無数の砲弾の破片を食らい意識を失った。撮影で現場を再訪した奥村さんは民家の壁に開けられた穴の跡を見て、はらはらと涙をこぼした。彼を助けるために戦友たちが懸命に開けた穴だった。

「もはや私は役に立たない兵士です。連れていっても足手まといになるだけなのに、その私をどうしても捨てられないと言うのです。仲間を残して自分だけ逃げるわけにはいかない、ということなのでしょうね」

 重傷を負った奥村さんは馬の背にくくりつけられ撤退行に加わった。負傷した兵士には手榴弾が一つ手渡された。敵に捕まる前にこれで死ねというのである。温情と酷薄。軍隊はこの2つで成り立っている。

 暗闇の中の逃避行で、奥村さんはコーリャン畑の中に迷い込み仲間たちからはぐれてしまうが、偶然同じ旅団出身の戦友と出くわした。

 砲撃はさらに激しさを増し、耳をつんざくような炸裂音が間断なく2人を襲った。塹壕の中で震えていると、突然戦友が「この手榴弾で抱き合って死のう」と言った。

「でも、私は死ねませんでした。なぜこんなところで、しかも敗戦後の戦闘でと思ったら、どうしても死ぬ気になれなかったのです。一度、死ぬ気をなくしたらもうだめです。私は持っていた手榴弾を捨てました」

 紙一重の死と向き合う奥村さんにこの決断をさせたのは、理不尽な戦争を強いられたことへの「こんちくしょう」という怒りだったに違いない。おかげで映画「蟻の兵隊」は存在する。

 翌日、2人はコーリャン畑を歩いているところを発見され、解放軍の捕虜となった。こうして奥村さんは、6年2カ月に及ぶ長い抑留生活を送ることになる。

写真は、重迫撃砲の直撃をくらった敗戦後の戦場で。三八式歩兵銃の薬きょうが見つかった。


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