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執筆者の写真池谷薫

なぜいま「蟻の兵隊」なのか——。戦後75年の節目ということはあるが、僕にとってそれはただのきっかけにしか過ぎない。「蟻の兵隊」の文脈と今の日本が重なり合って見えて仕方ないのだ。

僕がその思いを強くしたのは、まず昨年の「表現の不自由展・その後」をめぐる騒動だった。この国を覆う不気味な右傾化が看過できないレベルにまで達していると知ったとき、僕は「蟻の兵隊」の撮影を始めたころ、奥村さんら元残留兵たちから聞いたある言葉を思い出していた。みなが口々に「今の日本は俺たちが戦争にもっていかれた時代に似てきた」と言ったのだ。残念ながら「蟻の兵隊」に出演した元残留兵は全員が鬼籍に入ったが、もし彼らが生きていたら15年後の今を何と言うだろう。

そして年が明け、世界をコロナが襲った。多くの人が感じているように、この国のコロナをめぐる対応はちぐはぐで、もはや国家の体をなしてないのではないかと思わされることもしばしばだ。さらにこの間、森友、桜を見る会、検事長の定年延長をめぐる問題が取りざたされたが、その都度、国民は蚊帳の外に置かれ、用意されたペーパーを丸読みするアホな国会答弁にうんざりする毎日だった。

海外に目を転じると、中国はコロナのどさくさにまぎれて香港から自由を奪い、その中国にあからさまな敵意を見せることでトランプは大統領選を勝ち抜くことしか頭にない。

だがこうした偏狭なナショナリズムの台頭は日本も例外ではあるまい。相手を敵か味方に峻別して自分と異なるものは容赦なく排除する「不寛容」の高まり。それがマックスに達したとき戦争がうまれる。

そんななか、やはり今こそ「蟻の兵隊」を観てほしいと僕が意を新たにした、極めて重要な裁判が大阪ではじまった。公文書の改ざんをめぐる森友問題の国賠訴訟である。改ざんを強いられ命を絶った赤木俊夫さんの無念を思い、実名を明かして提訴に踏み切った妻雅子さんの覚悟を思う。そしてその姿は「蟻の兵隊」の奥村和一さんに重なる。これは個人の尊厳をかけた裁判なのだ。

多くの「蟻の兵隊」を生んだ日本軍山西省残留問題は、まさにこの個人の尊厳が国家に踏み潰された醜悪な事件であった。その悲劇の構造が、戦後75年たっても何ら変わらないとしたら、この国の戦後の民主主義とはいったい何だったのだろう。だからこそ僕はリスクを負って訴え出た雅子さんの勇気をたたえ、国民のだれもがこの裁判からけして目をそらさないことを願う。

今、われわれ一人ひとりが国家と向き合う個人の生き方を問われている。

写真は2005年8月15日の靖国神社にて、撮影を待つ奥村和一さん 

写真:岡本 央


池谷薫Facebook

執筆者の写真池谷薫

奥村さんは映画「蟻の兵隊」をどう観ていたのか? 奥村さんが初めて「蟻の兵隊」を観たのは2005年の初冬、府中の東京現像所で行われた35mmプリントの完成試写だった。妻の寿子さんを伴ってのことだったが、奥村さんは最前列、寿子さんは最後列と、なぜか離れ離れに座った。それほどその日の奥村さんには近寄りがたい雰囲気があった。 「蟻の兵隊」を観終えた奥村さんの印象は今も鮮明に覚えている。しばらく立ち上がれなかったのだ。試写室が明るくなっても席に座ったままじっとスクリーンを見つめている。近づいて「どうだった?」と訊ねると、しばしの沈黙のあと「これは始まりの第一歩ですね」と訳のわからないことを言った。まっさきに感想を聞きたい人なのに、いいとも、悪いとも、言ってくれない。僕は正直言って不満だった。

撮影:岡本 央 ではこのとき奥村さんに何が起きていたのか。監督として言おう。奥村さんはスクリーンに大写しになった自分とそれを見ている自分とのギャップを埋められなかったのだ。「蟻の兵隊」を客観視できなかった。そして、それはそのまま人間奥村和一が映画「蟻の兵隊」の主人公奥村和一を演じきった証と言えるのではないか。 たとえば、映画の終盤、靖国神社で小野田寛郎さんに突っかかっていくシーン。普段の奥村さんなら絶対にそんなことはしない。だが、殺人訓練の現場を再訪するなど己の戦争に決着をつけるまでになった映画の中で、奥村和一は「奥村和一」を演じることを自分の使命とした。戦争とは何かと伝えるために。あるいはそうすることでしかあの過酷なロケを乗り切る術はなかったのかもしれない。ならば、とてもじゃないが初めて観る「蟻の兵隊」は客観視できない。 その後、奥村さんは試写のたびに観たいと言ってやってきた。映画評論家やコメントのほしい著名人に観せる、いわゆる業務試写である。本当は主演の奥村さんにはあまり来てほしくないのだが、来るなとは言えない。そして4回目か5回目のときだった。奥村さんは僕に「監督、これはいい映画だ」と言った。ようやくスクリーンの中の自分を冷静に見つめることができたのだ。その顔はすこし晴れやかで、ようやく肩の荷を下ろしたといった風情があった。

写真は2005年8月15日、終戦60年の記念式典が行われた靖国神社にて。


池谷薫Facebook

執筆者の写真池谷薫

更新日:2020年7月28日

「蟻の兵隊」の核心は奥村さんの中国山西省への旅である。その目的は2つあった。軍命による残留を証拠立てる資料を探すことと、己の戦争に落とし前をつけることである。奥村さんは残留問題においては戦争の被害者だった。だがその戦争と向き合えば向き合うほど加害者でもあった自分から逃れられなくなっていった。

奥村さんはこのとき80歳。3週間、山西省内だけでも3千キロを移動する苛酷なロケである。しかも元日本兵が、かつて日本軍が蛮行を繰り返した中国の戦地を訪ねるのだ。はたしてその重圧に耐えられるのか不安は尽きなかった。

さらに心配があった。奥村さんは50代で胃がんを患い、胃の全摘手術を受けていた。だから多くを食べられない。そのかわり新潟出身の彼は大の酒好きで、それをエネルギーに換えて生きているような人だった。若い僕らでもきつい旅である。ろくにものを食べずにロケを乗り切ることができるのか。

結論から言おう。奥村さんは必死に食べてくれたのだ。健気なぐらいに。バイキングの朝食ではお粥のほか、ゆで卵に搾菜など、普段の彼からは想像できない数のおかずが並んだ。奥村さんははっきりと自覚していたのだ。もし自分が倒れたら、奥村和一という人間がダメになるのではなく、「蟻の兵隊」という映画が終わってしまうことを。毎食、食べる量を確認しながら、僕は「えらい、えらい」と心の中で声をかけつづけた。

そうそう、酒の飲み過ぎについては、僕が厳しく量をコントロールすることで事なきを得た。夕食の席でいつもピタッと横に座る僕を見て、奥村さんは「酒は配給制ですか」と不満を口にした。

写真は山西省太原の公文書館で残留問題の資料を調査中、撮影の合間に


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